熊本地震を経験した貴重な日々が少しでも誰かの参考に
なれたなら幸いです。
避難所
小学校は避難所へと変わったため、子供たちは1か月ほど
休校になりました。
体育館や校舎内が避難場所になりました。
トイレは、プールの水を運んできて、流すために使って
いましたが、やはり小さなバケツに多くの人。
やがてつまり、使用できなくなりました。
水が不足している中、先生方がつまりの解消を
一生懸命してくれていました。
こういうときは先生方は公務員のため被災者兼
支援者になるようです。
校舎内は数日でトイレ臭が充満していて、不衛生だった
ことを今でも覚えています。
日にちがたつと簡易トイレが設置されました。
配給も時間が決まっていたように思います。
食事は水、パンやおにぎりなど。
(炭水化物は太ります)
量はあまり必要でなかったです。
アドレナリンMax状態はおなかもあまり減りませんでした。
なまものは配給されず食べれません。(衛生面)
野菜や果物が食べたくてしかたありませんでした。
少しずつ物資も届きましたが、場所場所でずいぶん
差があり、
仕事帰りに物資がそろっている避難所(学校)へ、
足りない物資をもらいにいっていました。
初めのほうは、炊き出しの内容も差があり
(こっちがおにぎりならあっちはおにぎりとみそ汁など)
隣の小学校からもらってきた人は、肩身が狭く
(みんなピリピリしているので)
隠れて食べていました。
仕事
仕事は18日に出勤しました。
それまでは、避難所にいる利用者の様子をたまに見に
いったりしていました。
片づけはある程度終わっていました。
水は止まっています。
まずはトイレ水と飲料水の確保。
井戸水をだしてくれるところがあり、みんなで
くみに行きました。
利用者の安全は、個別にすんでいました。
職場にも少しずつ物資が届きます。
物資が集まる場所に団体名でとりにいき
利用者の様子見がてら、物資をもっていきます。
のんきに暮らしている人もいれば、
きちんと避難所へ避難している方もいる、
介護者がモノを持っていてくれるのを当たり前と
思っている人、
助けにきてくれなかった!と言われることも
ありました。
いろいろな人がいます。
こういうときは利用者も介護者もみんなが被災者だと
理解してもらうのはなかなか難しかったです。
しばらくはこういう生活が続きました。
心の傷
何回もの地震。
地震が起きた4月14日~4月30日までで
なんと1000回を超えていました。
(うち震度5は13回ほど)
人は慣れるもので、数えきれない地震の数に
地震のたびに
「お、2」「お、3」「いやいや今のは4だよ」
と震度もあてられるくらいになっていました。
次女は一週間集会所から出てきませんでした。
家に入って寝ようといってもだめです。
よほど怖かったのでしょう。
そらはこの地震をこの子のトラウマにしては
いけないと、一週間後、車で連れ出しました。
ほかの避難所や被害のあった場所を見せてまわり
「あなたはけがをしたの?」
「あなたはおうちがなくなったの?」
「誰か亡くなったの?」
「あなたは食べるものがないの?」
「あなたはお外で寝てるの?」
質問の答えは「NO」
この地震ではたくさんの人がもっともっと大変な
思いをしている人がいる。
あなたは幸せなんだよ。
寝るとこがあって、
食べるものもあって、
家族はみんな無事
ただ揺れただけ。地面もたまには揺れるよ。
そらは伝えました。
次女は自分がこの地震でも恵まれた立場にいることを
理解したようでした。
自分の現状を嘆くことはいくらでもできます。
でも与えられた環境のなかでいかに
ポジティブに物事を考え前をむけるかを。
いかにほかの人に思いをはせられるかを学ぶ
いい機会となりました。
次女はそれから自宅に入るようになりました。
5年後の今、地震の話をしてもおびえることなく
毎日を過ごしています。
人と比べてしまったことは申し訳なく思いますが
当時はみんなが、前を向くために何かが必要でした。
この地震を教訓にたくさんのことを勉強しました。
当たり前がどんなに尊いのか
水道がひねってでるありがたみ
トイレが流せるありがたみ
お風呂にはいれるありがたみ
電気がつく
ガスがつく
店にはなんでもそろってる
文明が発達しすぎてしまっている
日本人が忘れている
日々のありがたみ
気づくことができました。
二度と起きてほしくはありませんが
多くのことを学びました。
地震のことを話すのは最後になるかと思います。
この経験が、誰かのお役に立てる日がくれば
嬉しいです。
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